音楽上における錯覚についてはフランスで多くを学びました。これは私の師であるメシアンの研究テーマの一つだったこともあり、いろいろと話す機会にも恵まれました。
音楽において、距離感の錯覚は陰影に役に立ち、色彩感の錯覚は倍音によるものです。ですから、倍音が豊かな楽器の方が様々な錯覚を演出することができますし、自分が音色や倍音を自在に操るのが容易なことは、とてもありがたいところであります。
今回のプログラムを倍音と結びつけないで考えるのは不可能であります。ピアノは音域が広い楽器ですので、低い音域にある種の倍音の魅力が備わった音の方が、高音域の和音や旋律が美しく乗せられるのです。ただ、ブーレーズの今回の曲は倍音で作る音楽とは違うと思います。もっとラジカルに音色と音色との対比になると思います。
音色については、今回は近現代の曲ですから、とりわけハーフタッチをたくさん使いながらも、指が浮かないでタッチすることを念頭に置いています。またハーフペダルをたくさん用いますが、よく踏み変えて濁らないようにします。
1979年米仏協会主催のマグダ・タリアフェローのカーネギーホールでのリサイタル終演後のパーティーにて
前回、リサイタルのインタビューで述べたように、東京文化会館にあるスタンウェイがとても気に入っています。その理由の一つに、このピアノですとmpからppまでに数え切れないようなグラデーションを作れることが挙げられます。この特徴は今回取り上げたドビュッシーの曲を弾くにあたって、錯覚を表現するのに有利に働き、音色を作る喜びが生まれます。同じスタンウェイでも、華やかな音色の出るものもあり、それもとても好きなのですが、弱音が特に美しく弾けるピアノの方が自分にはいいのかもしれません。
メシアンの70歳を祝うコンサートのプログラム
特筆すべきはリズムです。ドビュッシーのリズムがなければ、メシアンのリズムは生まれないし、メシアンがいなければブーレーズのリズムも生まれなかったと思います。三者の共通点は、リズムが微妙に伸びたり縮んだりすることです。リズムが伸びるときにはその音に符点がつき、音価が付加され、作曲における技術を巧みに操っています。
次にこれは三者に共通というか、作曲家全般に言えることかもしれません。どんな人でも時代時代を正直に生きていかないといけないので、自ずと自分以外の人達がどういう流れにあるのかを意識せざるを得ないのですが、思いのほか本質は変わらないと思います。例えるなら、歌声に似ているかもしれません。歌声というのは青年期のときはありのままですが、中年になると熟していって、中年から晩年にかけては、周りの意見に敏感になり、それを取り入れていって複雑化します。しかし、晩年になると、元の美しい所に戻ります。今回演奏する“ピアノのための12のノタシオン”はブーレーズが20歳頃作っていますが、現在彼自身がオーケストラ編成を書いています。それは一つの証左になるのではないでしょうか。
前奏曲集の個々にタイトルが付いていますが、ドビュッシーの心の中にはタイトルの表面とは違う揺れや屈折があり、それが良さでもあります。ですから、タイトルらしさを表現するだけでなく、タイトルとは違う別の側面も表現したいところであります。
音色としては、流れる音色、停留しても、停滞しないことです。ドビュッシーの横に流れる表情を出すときには、自動的に流れるのではなく、ポイントを設定しなくてはならないのです。自分は何もしないと横に流れていきますが、例えば、サーフィンやスキーの滑降などにみられるポイントで決める感じを出すような必要があると思います。
この曲は10分弱と短くはありますが、リズムが天才的で、とにかく聴いていて飽きないし、深みにはまります。いくら天才とはいえ、二十歳の少年がよくこんな事を考えたと唖然とします。最初からできあがっていたような人です。それもこの音以外はないという音で作られていて、当時の彼の聴覚に正直で、彼の使いたい音だけでできている。彼の才能の研ぎ澄まされた、知能の美しさが見えます。
キガシラコウライウグイスがこの曲のプリマドンナ的な存在で、ニワムシクイなども歌ってくれ、色調が明るく、倍音に乗せやすく、キガシラコウライウグイスが夕日を浴びて幸せそうになる。そこがとても綺麗なのです。
鳥のカタログはメシアン直々に習いました。ポイントとなる部分をいくつか弾いてくださいましたが、左手の作り方が独特でびっくりしました。先生が横で弾いてくださる音は、とても優しく、よく歌い、まろやかで、今でもよく覚えています。
しかしなぜメシアンは鳥に憧れたのでしょうか。人は必ずDevoir(義務)があり、だからこそLiberté(自由)があるように思えます。彼は自然が大好きな人ではあるけれど、一年の大半は都会にいなくてはなりません。彼にとっての都会の喧騒というのは言ってみればDevoirです。それでいて、鳥の囀るような美しい田舎に飛んでいきたいというLibertéへの憧れが常にある。彼は自身と鳥を入れ替え、行き来するような錯覚を日常上手くすることにより、Libertéを得て呼吸が楽になっていた人だったと思います。
人が錯覚している瞬間というのは、言わば本能であり、虚栄のない無の境地であり、美に感謝すべき時であるとも言えます。
私はフランスの海辺が大好きです。オンフルールは柔らかい光がさす場所で、昔からフランスの画家が集まるところだし、ル・モンサンミッシェルは潮の満ち引きが美しい世界的観光地です。エトルタは岸壁があって波が鮮明で美しく、ドビュッシーも多くのインスピレーションを受けました。そうした、昔から多くの芸術家を魅了してきた海は、同じ海でありながら、その色は光や風により春夏秋冬で全然違ってしまいます。そして、数え切れない感性との交流と錯覚を生み出しています。
ヴェルレーヌという詩人がいて“艶なる宴”などの実に美しい詩を書きました。その詩に感動した、ドビュッシーやフォーレ、ラヴェルが歌曲を作曲しました。それぞれが錯覚し、詩と音楽との情感の交流を生み出したのです。
多様な感性を生み出す自然や芸術により、錯覚を覚え、感性を表現できる技が至芸となり得ます。楽譜というのは、五線紙に音を並べたものでありますが、音楽家は音色や響きを変えることによって錯覚を自由に作り出すことができるのです。
私はドビュッシーであれ、メシアンであれ、錯覚に満ちた響きを作る時、自分の感興が自然と呼応するのです。それは一生涯通じていることであり、錯覚という名の蜃気楼を生み出すことが、私の誇りでもあります。【談】
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