武満徹さんの作曲された「雨の樹素描」のテンポマーキングは、第1版、第2、第3版とそれぞれテンポIIのメトロノーム速度が早くなっています。私の1982年の録音では、現在出版されているTempo II = 100~108で演奏されています。この事のついてご質問がありましたので、経緯と共に、また同時代の作曲家についてもお話したいと思います。
1977年の秋ごろ、パリにいらした武満さんから、食事でもしないかと連絡がありました。その食事会が武満さんとの初めての出会いでした。78年に開催する「パリの秋」 (注1) に出ないかと言われ、喜んでお受けしたのを覚えています。
78年は武満さんとお会いする機会に恵まれました。5月には武満さんが音楽を担当した映画「愛の亡霊」で大島渚監督が第31回カンヌ国際映画祭の監督賞を受賞され、お二人とパリで一緒にお食事させていただきました。7月にラ・ロシェルで開かれた国際現代芸術「出会いフェスティヴァル」では、武満さんが国際現代音楽フルート・コンクールの審査員をされており、私はフルートの工藤重典さんと参加しました。その打ち上げで武満さんと工藤さんの3人で食事をし、10月から12月にかけて開催された「パリの秋」について打ち合わせなどをしました。「パリの秋」では何公演かに出演させていただき、その折々にも何度か色々なお話をしました。
79年6月にはパリで武満さんが音楽監督している「Music Today」(注2) の打ち合わせをし、翌年、私がそれに出演した時に、モーリス・フルーレ(Maurice. FLEURET 1932~90)の50歳の誕生日に曲を書かなくてはいけないと聞きました。 81年頃からかもっと前からかもしれませんが、武満さんに、ピアノの新しい曲を書かれたら是非初演をさせて欲しいと言っていました。すると、82年に武満さんがモーリス・フルーレの誕生日のために書いた「雨の樹」の楽譜を郵送してくださいました。楽譜が手元に来た時に電話をしたのですが、特に指示はありませんでした。
82年にピアノ作品集内の「雨の樹」を録音しました。この時の楽譜は手書きではありませんが、出版される前のもので、テンポは録音したものと同じように書かれていました。武満さんが浦安市文化会館にいらしてくださり、テンポのことなどを聞いたところ、「2つのレント」は良い意味でもっと自由に弾いて欲しいと言われましたが、他は「雨の樹」含めそれでいいと言われました。
私が録音した後すぐに、ミッシェル・ベロフ(Michel Beroff)、ルドルフ・ゼルキン(Rudolf Serkin)が録音しましたが、ゼルキンの録音は私のテンポよりもっと遅くなっています。作曲家によっては事細かく指示を出す方もいらっしゃいますが、武満さんは演奏家との信頼関係がある場合には、演奏家の裁量を認め、演奏を楽しんでいたように思えます。83年1月14日東京文化会館で「雨の樹」の世界初演をしました。その時も武満さんはリハーサルからいらしてくださったのですが、特に指示はありませんでした。
90年に録音した鍵盤作品集の中の「雨の樹」は楽譜が出版されていましたので、出版譜を見て弾きましたが、テンポ表示は前回の楽譜と違いました。どうしてそうなったかは分かりませんでしたが、私はそのテンポはしっくりこなかったので、最初の録音と同じようなテンポで演奏しました。とは言え、レコーディングする場所が前回と違って残響が長いため、テンポを揺らした方が面白いのではないかと思い多少違う部分もあります。
私がテンポについての矛盾を感じていたので、武満さんに録音したものを聞いていただいたところ、それでいいとおっしゃられました。メトロノームだけではない独特なテンポ感があり、武満さんの中に良い意味での柔軟性や寛容性があるためではないかと理解していました。
武満さんのテンポ指示による矛盾感は日本人独特のものでないかと思っています。西洋の作曲家にはなかなかみられないもので、時空間に対する考え方が違っていて、魅力にもなっていると思います。でも、実際私を含めベロフもゼルキンも演奏するピアニストは皆悩むと思います。武満さんはそれを楽しみにしているようなところがあったのかもしれません。というのは、もっと分かりやすく記譜することはいくらでもできるのにしていない、そこに柔軟性が生まれ、それが魅力となる。作曲法において、1足す1は2ではないところが日本人のいいところなのかもしれません。
しかし、武満さんも最初からそのような記譜の仕方をしていたわけではなく、最初は西洋的な記譜の仕方で出発し、60年代後半から70年代の拍と時空間の開放という流れがあって、変化していき、その日その時の自分の世界に忠実に従える、そういう記譜の仕方になっていったのではないでしょうか。
ジョージ・クラムについて、特記すべきは内部奏法で、高橋アキさんと弾かせていただきました。内部奏法の倍音が素晴らしく、残響が長いホールだと曲の倍音が際立ち、天にも昇るような気持ちになります。
時空間のテンポ感についての記譜は非常にわかりやすいので、弾きやすいし、アンサンブルしやすいです。拍に対する感覚は西洋に対するそれと同じですが、内部奏法をふんだんに使ったサウンドがあまりにも他の作曲家と違うので、内部奏法による倍音を手がかりに音楽を作らなくてはいけないと思います。
ジョン・ケージは時空間へのアプローチを全く変えたと言っていい方だと思います。以降の作曲家が影響を受けずにはいられず、武満さんも影響を受けていると思います。
彼が89年に京都賞を受賞した時、NHKが放送した番組をみました。私にとってはチャーミングでわかりやすく、むしろとても西洋的でした。それと同時に音楽における時空間というものの中には古典的普遍性が潜んでいて、それを全部なくすのはとても容易なことではないと感じました。
武満作品を演奏する時、数の数え方、リタルダンドなどの仕方、時間の取り方など、他の作曲家を弾くのと違えるのか、同じでいいのかというのは、演奏家それぞれの考え方だと思います。私はどの作曲家を演奏するときも楽譜に忠実にアプローチして弾くほうだと思いますので、作品によって違います。でも、それが全てと言うわけではなくて、武満さんの作品を日本で一番よく弾いていらっしゃる高橋悠治さんは、彼の独特の感性を加える事によって、作品を高めているのではないかと思っています。どう考えるかは個々の感性だと思うのです。
【談】2013年5月東京にて
(注1) パリの秋:1978年の10月から12月にわたってパリで開催されたフェスティヴァル。武満氏は特集「日本」のために、建築家の磯崎新とともに「日本の時空間<間>展」を企画。「日本の現代音楽と伝統音楽」シリーズの音楽監督として、18の演奏会を構成する。
(注2) Music Today:武満氏が音楽監督し、海外の演奏家を招いて新しい音楽を積極的に紹介した。1973年から1992年までおこなわれた。
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